今の時代はそうでもないかもしれませんが、昔は「オタク友達」を作るのは至難の業でした。
まず、オタク自体が今ほど市民権を得ていなくて問答無用でキモイ奴扱いでしたし、学校の同じクラスで漫画やアニメに深くハマっている人を1人でも見つけられれば奇跡でした。
私は幼い頃からオタクでしたが、オタク話ができる相手に出会えたのは高校に入ってからです。
中学までは周囲は非オタクばかりで、漫画やアニメは見ていてもガチでハマっているような人はいませんでした。一応友達はいましたが、私が本当にしたい話はできないため、内心ではずっと寂しい毎日を送っていました。
なので、高校に入って二次創作や同人イベントの存在を知った時の興奮は物凄かったです。
それまでの人生で仲間に飢えまくっていた私は、イベントに行けば同ジャンル同カプの人に速攻で近付き、聞かれてもいないのに「私も本を作っています!」とアピールし、ぜひ推しカプについて語り合いたいと迫りました。
今となっては信じられないほど前のめりでキモイ行動を取っていましたが(結局キモイのか)それは無理もないことです。だって、生まれて初めて同志というものに出会えたのですから。
とは言え、イベントでは同ジャンル同カプの人に出会えても、普段の生活では相変わらず全力で話せる相手はいない状況でした。高校で初めてオタク系のクラブに入ることができて、オタクの友達はできましたが、ジャンルやカプまで同じという人はそう簡単には見つかりません。
私は「普段から同ジャンル同カプの話ができる仲間」という奇跡の存在を渇望し続けました。
渇望しすぎて干物のようにカラカラになりながら大学を卒業した頃、インターネットが同人の世界にも普及してきて、同人サイトというものが登場しました。私はとても感動しました。
これなら、イベントに行かなくても同カプの人と知り合うことができ、遠方の人ともメールや掲示板で語り合い、会う約束をすることもできる!と喜びました。
非オタク的な感覚だと、ネットで知り合った人と会うのは、なんとなく危険というイメージがあると思います。オタクでも警戒する人はしますし、そこまで交流相手を求めていない人なら、安易に会おうと言われれば引くのが普通でしょう。
ですが、当時の私は潤いを求める干物でした。そしてさらに「自分と同じ趣味を持つ人が悪い人であるはずがない」という謎の確信を持っていました。自分と同じ二次元オタクはすべて善人で、ましてや同ジャンル同カプの人に悪人などいないという考えでした。
そして多くの人達と直接会いましたが、危険な目に遭うことは無く楽しく過ごせました。
しかし、やがてSNSが登場して、私も当然交流のために使うことにしたのですが、SNSは私には合いませんでした。それまではずっと、ネットでもオフでも楽しく交流できていたのに、SNSのせいで数年で一気に交流嫌いになってしまいました。
私にとってはつらい思い出でしたが、これのおかげで、交流好きと交流嫌いの両方の気持ちを知ることができたとも言えます。昔は交流嫌いな人の気持ちが全然理解できなかったので、これはこれで収穫だったと考えれば無駄ではなかったかもしれません。
それにしても、今振り返れば昔の私の飢え方はちょっと異常だったような気もします。当時私と同じジャンルにいた他の人達はどう思っていたのか、今になって気になります。もし、別に交流したくないのに私が強引に突撃してきたのだとしたら、大変申し訳ありませんでした。
そうなってしまったのも子供の頃に飢えすぎたせいなので、もともと飢えない環境で過ごせている人は幸せだと思います。楽しい交流ができている人は、どうかそれが今後も続きますように。
コメント
オタク友達がレア、という感覚よくわかります。
昔は学校や社会でオタクの立場が不利だったので、オタクも二次創作も「仲間内だけでひっそりやるのがマナー」と思って育ちました。だからこそ「仲間は大事にしないと」という気持ちが強かったように思います。
私も学生時代にオタク友達(部活の仲間)がいましたが、即売会にはなかなか行けなかったので、同ジャンル同カプの人と交流できたのは、個人サイトが普及するようになってからでした。
当時の私は積極的で、サイトの作品を見て「好きだ!」と思った人には熱いファンレターを送り、相手から「あなたのサイト前から見てましたよ」とお返事をいただいた時などは、飛び上がるほど大喜びしてました。
幸運にも変な人に出会わなかったので、即売会や公式イベントに一緒に行ったり、イラストをプレゼントしあったりと、楽しい思い出ばかりでした。それゆえにtwitter時代になっても、同様の人間関係が得られると思っていました。
しかしtwitterでは攻撃的な人に遭うことが多く、はじめは自分が悪いのでは?と考えて、文章に気を付け、繋がる人を厳選し、アカウントを作り直したりもしましたが、あまり変わらず…攻撃的な人と縁を切っても、似たような人が次々と現れるのです。
そうこうしているうちに、自分の発言に自信が無くなり、人が信じられなくなり、以前とは変わって、用心深く内気で交流苦手な自分になっていました。
このループは一体何なのか?なぜ昔のような交流ができないのか?何度も傷つき悩んでいたところ、ヒロコ1号さんのブログに出会い、その理由がわかりました。これ以上twitterでジタバタしても、求めているような交流は得られないとわかったので、やっとtwitter離れを始めることができました。
今のようなSNS時代では難しいだろうと思いつつも、個人サイト時代の雰囲気はやはり懐かしく「ああいう交流がもう一度できたらな…」と今も思います。
ヒロコ1号さんのブログで、昔のオタク事情や、楽しかった交流のことを思い返すことができて、とても癒されています。
>匿名希望さん
こんばんは。私も匿名希望さんとほぼ同じ経緯をたどっています。個人サイト時代に嫌な目に遭ってしまった人はまた考え方が違うかもしれませんが、私は昔の交流が好きでした。
ツイッターというツールが悪いのか、時代とともにオタクの性質が変わったのか、私は両方ではないかと考えています。残念ですが、仕方のないことなのかもしれません。
ですが、昔ながらのオタクという感じの人も、見つけにくくても存在はしています。私はツイッターをやめたあと、休止していた個人サイトの更新を再開しましたが、その時に「サイトに戻ってきてくれて嬉しいです」というメールをもらいました。見に来てくれる人数は減ったはずですが、熱くて丁寧な感想なら個人サイトに戻ってからのほうが多くもらえました。
ツイッターでの致命傷はもうどうにもなりませんでしたが、サイトに届いたメールを見て「まだこういうメールを送ってくれる人がいるんだ」と思った時は、少しだけ癒されました。
サイトでもブログでも、他のお絵描きSNSでもかまいません。とにかくツイッター以外のところへ行けば、それまで気付かなかったことに気付けるのではないかと思います。
ただ、これほど有り難いメールでも、ツイッターでの致命傷を治せなかったという事実はとても悲しいです。限界まで我慢しすぎた私が悪かったのだと反省しています。
学校の友達も、同人で得た友達も、ずっと続くものだと思っていました。でも、人はモノを思う限り、意見も食い違うし、環境も違い疎遠になると、離れていくモノなんですよね。歳をとり、同人で狂乱していた日々がある意味懐かしいです。私もヒロコさんと同じく、漫画は好きだけど、心を燃やすものはもうないです。人は孤独だからこそ、過剰につながりや連帯を喜ぶし、求めるものだけど、その分傷つくことも多いですよね。
>ももんさん
そうですね、私もすべてがずっと続くと思っていたのに、気が付けば全部消えていました。
今だからこそ分かることもある一方で、やっぱり同人で狂乱していた頃に戻れたらと思うことも時々あります。推しの妄想が無限に湧いてくる毎日は、本当に幸せでした。
まさに「狂乱」するほど作品やキャラにハマったことが無い人には「好きな作品はあるけど心は燃えない」という感覚を理解してもらいにくいので、それもちょっとツライですね。
12月1日にコメントした匿名希望の者です。
心温まる体験談を聞かせていただき、ありがとうございます。私は「見つけにくくても存在している昔ながらのオタクな感じの人」がいるなんて思い至らなかったので、良いお話を聞けて心が和みました。
今は疲れてしまって創作は休止していますが、また作品が描けたら、twitter以外のところで「見つけにくくても存在してる人」がいると信じて、公開してみようと思いました。
たくさんコメントがあるなか、ヒロコ1号さんは全部丁寧に返信されていてすごいなぁと思っています。ありがとうございました。
>匿名さん
こんばんは。ネット上では有名なもの、流行っているもの、不快なものが目立ちますが、そんなものとは関わらずに平穏に過ごしている人も現実世界にはたくさんいます。
個人サイト全盛期の頃に知り合った人に「よかったら私のサイトを見にきてください」と言ったら「パソコンの使い方が分からないから見れません」と返されたことがあります。
その人はネットはせず、即売会で本だけ買ってました。昔の私は「ネットにもいい作品があるのに勿体ない」と思いましたが、今はそれがその人のペースなのだと受け入れられます。
見えない所にいろんな人がいます。創作を再開できた時、良い出会いがあればいいですね。
コメント返信については、同人をしていた頃も同じような感じでやってました。
今はまあ、同人をしていた頃よりはまだラクですが、確かにコメント増えましたね( ゚д゚)